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400年前のキリシタン家臣殉教に関する一次資料を発見

Kumamoto University

Research News

日本では16世紀末から17世紀初めにかけてキリスト教徒の弾圧が高まり、この時期に多くの宣教師や日本人信者が殉教しています。今回、熊本大学 永青文庫研究センターの研究により、細川家のキリシタン重臣だったディエゴ加賀山隼人の処刑と、小笠原玄也の追放を小倉藩主細川忠興が命じたことを示す書状を発見しました。両名の処分・殉教については、これまではイエズス会宣教師のローマへの報告書でしか知ることができませんでした。今回、処分を下した細川家の組織内で作成された一次史料が発見されたことによって、当時の宣教師たちの著述の信憑性と限界とが明確になり、確定的な事実が明らかになりました。

16世紀中頃、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの来日を契機に、日本におけるキリスト教信者の数は爆発的に増えていきました。やがて大名や家臣の中にもキリスト教を信仰する者が現れます。特に、宣教や南蛮文化の入口となった九州地方にはキリスト教信者が多く、織田・豊臣期の近畿において近世大名となった細川家にも、多くのキリシタン家臣がいました。第2代当主細川忠興の妻・玉(明智光秀娘)がキリシタンであり(「細川ガラシャ」)、関ヶ原合戦に際して信仰を守り最期を迎えたことはあまりにも有名です。

しかし、やがて幕府は厳しくキリスト教を取り締まるようになります。慶長18年(1614)12月に江戸幕府が全国禁教令を発布すると、細川家の家臣たちも次々と改宗していきました。中には改宗せずに家中にとどまっていた重臣もあり、その代表的存在が、加賀山隼人と小笠原玄也です。

加賀山隼人は3人の大名に仕えた武将です。主君の内最初の2人はキリシタン大名で、それぞれ国外追放や病死のために主君を失った後、細川忠興に仕えると家老として重用されました。細川忠興自身はキリスト教徒ではありませんが、妻のガラシャが熱心なカトリックで、隼人はいずれもキリスト教に縁の深い大名に仕えています。もう一方の家臣、小笠原玄也(与三郎)は、関ヶ原合戦に際して石田方に包囲された細川家大坂屋敷でガラシャの最期に付き添って自刃したことで有名な小笠原少斎の子息で、隼人の娘婿でした。二人は藩主細川忠興からの改宗の命に従いませんでしたが、忠興も隼人を家老として重用してきただけに、断固とした処分を下せずにいたと考えられます。

イエズス会宣教師のローマへの報告書によれば、元和5年(1619)9月8日、ついに忠興は棄教を拒否する加賀山隼人の斬首を命じます。また、同じく小笠原玄也一家を「(細川家居城のある小倉から)寂しい片田舎に、無名の農夫や領内の無法者たちがいるところに追放」した、といいます。

今回の書状は、この命令に関わるもので、熊本大学永青文庫研究センターが取り組んでいる「松井家文書」(細川家第一家老家の実務文書群)の調査の過程で発見されました。以下、新発見史料の解読文と現代語訳です。差出人の矢野ら3名は小笠原玄也の身柄管理を担当する役人、宛先の松井興長は細川家第一家老(藩政の最高責任者、在小倉)です。

【解読文】

猶々与三郎殿忝通、我々三人ゟ能々可申上由被申候、其御心得可被成候、以上、

御奉書拝見仕候、然者、加々山隼人儀、夜前 御成敗被仰付候由、奉得其意候、小笠原与三郎殿儀者、少斎御忠節ニ付被成御赦免候通、御状参之上を以 御諚之趣則申渡候、忝段可申上様も無御座由被申上候、殊子共衆迄も被成御免段申渡候、一段忝由被申上御状之御返事被仕候、自然分別相違之儀共御座候而走なと被仕候ハヽ、近所之惣庄屋・頭百姓内々心懸押置、即刻注進可仕通、堅申付候、若押申儀不罷成候ハヽ、打果シ候ても不苦由、奉得其意候、相替儀御座候ハヽ追々御注進可申上候、恐惶謹言、

    申ノ下刻   矢野六左衛門

     (元和五年)九月九日      政(花押)

           吉田甚兵衛
               (花押)

        冨嶋猪兵衛
              貞(花押)

  長岡式阝少輔(松井興長)殿
         貴報

【現代語訳】(内容を整理して示しています)

忠興様の命令書を拝見しました。

1.加賀山隼人の成敗=殉教
加賀山隼人に昨夜(9月8日)、御成敗の命令が下されたこと、承知しました。

2.小笠原玄也一家の助命
小笠原玄也(与三郎)殿については、(玄也父の)小笠原少斎の御忠節に報いて命を助けるとの忠興様の命令書でのお言葉を、すぐに申し渡しました。玄也殿は、「忠興様には何と申し上げてよいかわからないほど感謝しております」と述べられ、特に子供たちまでも助命するとの忠興様のご意向を申し渡すと、心からの感謝の意を述べられて、忠興様への返事の書状をしたためられました。なお玄也殿は、「忠興様に感謝している気持ちをあなたたち3人からよくよく申し上げてください」、と申されています。お心得ください。

3.小笠原玄也一家の管理
万が一、玄也殿が思い違いして拘束地から脱走しようとされたなら、近所の「惣庄屋(十数カ所の村をまとめる村役人の最上位)」や「頭百姓」が内々に心がけておいて取り押さえ、即刻注進するよう、しっかりと命じておきました。もし取り押さえるのが困難な場合には、討ち果しても差し支えないとのこと、承知しました。今後、異常が生じたら、すぐに報告します。

    9月9日午後5時 矢野六左衛門ほか3名から松井興長様へ

本史料について、稲葉継陽教授は次のように解説しています。

[意義]

加賀山隼人と小笠原玄也の処分・殉教について、これまではイエズス会宣教師のローマへの報告書でしか知ることができず、情報の不確実性を排除できませんでした。しかしこの度、処分を下した細川家の組織内で作成された一次史料が発見されたことによって、確定的な事実が知られることになりました。二人の処分は、キリシタン弾圧史上最大の事件の一つである「元和の京都大殉教(1619年)」を実際に目の当たりにして危機感を抱いた忠興が、その直後に国元で断行したものと考えられ、有力大名家中のキリシタン家老・重臣への衝撃的かつ決定的な弾圧事件でした。これ以降、大名の組織内においてもキリシタン武士の存在は決して許容されなくなったのです。領主階級内部の非キリシタン化の完了を象徴する一次史料であり、日本キリシタン史にとって大きな発見だといえます。

また、本書状の内容は、1.と3.が当時のイエズス会宣教師らがローマに送った報告書の内容とほぼ一致しますが、2.は史料上初めて知られる内容です。小笠原玄也の父である小笠原少斎は、主君である細川忠興の妻ガラシャを、関ヶ原合戦の緒戦において敵方の人質に取らせず介錯して名誉を守り、その場で自らも殉死しています。少斎の功績を、細川忠興がたいへん高く評価していた事実を明確に示しています。なお、小笠原玄也一家は細川家中から排斥されたまま信仰を貫き、最終的に寛永12年(1635)12月に熊本で成敗されています。

さらに、小笠原玄也の小倉からの追放について、当時のイエズス会宣教師の報告には、「無名の農夫や領内の無法者たちがいるところへ追放され」、「下層の職人や貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か被差別民の一人でもあるかのよう」な境遇に置かれたと述べられています。しかし本文書によると、玄也一家は3人の専属担当役人(本書状の差出人)と、逼塞先の地域の「惣庄屋」や「頭百姓」といった村役人、つまり細川家の正式な藩政機構のうちで管理されていた事実が知られます。弾圧期日本のイエズス会宣教師らのローマへの報告書には、事実と誇張の両面が含まれていることを具体的に示す一次史料としても、貴重です。

[公開情報]

本文書は、2021年2月に刊行される永青文庫研究センター編『永青文庫叢書 細川家文書 地域行政編』(吉川弘文館)に収録されます。

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永青文庫研究センター

熊本大学附属図書館では、「永青文庫細川家資料」(約 58,000 点)や細川家の筆頭家老の文書「松井家文書」(約 37,000 点)の他、家臣家や庄屋層の文書群計 10 万点あまりが寄託・所蔵されており、永青文庫研究センターではこれらの資料群について調査分析を行っています。

※「永青文庫研究」は熊本大学永青文庫研究センター発行の紀要です。入手を希望される方は永青文庫研究センター(下記お問い合わせ先)までご連絡ください。

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