News Release

伝説の数学者「吉田光由」の熊本滞在

江戸時代の伝説の数学者の熊本招聘を示す一次史料を

Peer-Reviewed Publication

Kumamoto University

<i>Shinpen Jinkouki 3</i> written by Mitsuyoshi Yoshida.

image: <p><a href="https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3508170/47 ">National Diet Library</a>, Japan </p> <p>The book contains a mixture of practical and amusing questions, and its many illustrations made it easy for the common people to read.<br> The page on the right shows how to find the height of a tree. </p> view more 

Credit: National Diet Library, Japan

江戸時代の約250年間、日本で大ベストセラーとなった和算書『塵劫記(じんこうき)』の著者吉田光由が、熊本藩に招かれて1636年と1637年に熊本に滞在していたことを示す一次史料を発見しました。当時の熊本は、熊本城普請や堤防工事などに追われていました。算術の体系や土木水利技術の最先端の知識を保持する吉田光由が、京都から熊本に招聘された事実を示す史料の発見は、江戸初期の地方社会の情勢を解明する重要な糸口となるものです。

古来の計算道具であるそろばんが14世紀頃発明され、中国から輸入されると、日本でも広くそろばんやそろばんを使った算術が普及しました。『塵劫記』は、このそろばんの普及に大きく貢献したそろばんの教科書といわれますが、そろばんの使い方だけでなく一般の日常生活や農業、商業、工業などあらゆる分野で必要な算術を取り上げています。寛永4年(1627年)に初版が発行された後、改訂版や類似本が数多く発行され、専門家から一般民衆にまで広く愛されました。

その著者で�算者�である吉田光由は、京都での金融業や朱印船貿易で多くの富を得て河川改修や運河の開削などの土木事業に貢献した角倉了以(すみくらりょうい)の角倉家の一族で、光由自身も京都の菖蒲谷隧道(しょうぶたにずいどう)を手掛けています。ただし今に伝わる光由の生涯は伝聞によるものが多く、あまり詳細には明らかになっていません。光吉が招かれた当時の熊本は、熊本城普請や堤防普請、大規模な耕地開発などに追われる時代にありました。

発見した2点の史料の内、1点目は熊本の惣奉行4人が署名し差出人となっているもので、宛名の4人は大坂にいる熊本藩の「御米方・御銀方・御買物方奉行です。

史料(1)

寛永13年(1636)7月21日「大坂へ遣状之扣」(永青文庫目録番号10.9.51.2)

一、今度、京ゟ被召連、被成御下算者吉田七兵衛(光由)被指上候間、申入候、
一、此文箱、京御買物奉行衆へ被成遣 御印有是間、慥ニ相届可被申候、定而頂戴仕との御請可有之間、便宜ニ可被指越候、恐々謹言、      

七月廿一日               
(堀江)勘兵衛                          
(河喜多)
五郎右衛門                          
(椋梨)半兵衛                          
(沖津)作太夫       

仁保太兵衛殿       
中川左左衛門殿       
佐野嶋平兵衛殿       
菅村藤兵衛殿

【現代語訳】

一、忠利様に京都より召し連れられ、熊本に御下りになった算者吉田七兵衛が京都に御上りになるので、お知らせする。

一、この文箱には、京都の御買物奉行衆に遣わす殿様の決裁文書が入っているので、確実に届けるように。確かに受け取ったとの受領書を定期便で熊本に送るように。

寛永13年(1636)、参勤で江戸にいた藩主細川忠利は、正月から始まった江戸城の石垣普請を3月末に終え、熊本に帰国します。5月13日に江戸を出て、6月9日熊本に着いていますが、途中京都に立ち寄っています。この史料の中に「召し連れられ」という表現がありますので、この時、忠利が京都から吉田光由を連れて、熊本に帰国したのではないかと推察します。

これは、光由が2か月ほど熊本に滞在して、7月21日頃、京都に帰るというその時に、熊本の惣奉行から大坂の「御米方・御銀方・御買物方奉行」の4名に出された書状の、リアルタイムの控えです。4名は大坂で細川家の財政・経費を取り扱う奉行ですので、この書状は、光由の京都に帰るまでの交通費・賄料(食費や生活費)を上方で支払うようにとの熊本からの指示であったと考えられます。

2点目は熊本城内の奉行丸にあった御奉行所から、「御客人御賄奉行」の鳥井六左衛門に宛てて出された差紙つまり命令書の、これもリアルタイムの控えです。

史料(2)

寛永14年(1637)2月7日「萬差紙之扣」(永青文庫目録番号14.16.37)

一、京ゟ吉田七兵衛被罷下候間、如去年、着日限ゟ逗留中賄米可被申付候、以上、    

寛十四二月七日                御奉行所        
鳥井六左衛門殿

【現代語訳】

一、京都より吉田七兵衛が罷り下られるので、去年のように熊本に着いた日から熊本逗留中の賄い米の支給を命じるように。

この史料は、吉田七兵衛(光由)が寛永14(1637)年に再び客人として熊本に招かれたことを裏付けるものです。この2点の史料によって、光由が寛永13(1636)年と14(1637)年の2度にわたって熊本に滞在したことが明らかになりました。また、従来考えられていたように細川家に仕官していたのではなく、客人として滞在したということもわかりました。

これまで、後世の編纂物や二次史料によって、数学者吉田光由は熊本藩に召し抱えられていた(仕官した)といわれてきました。しかし、その史実を裏付ける一次史料は確認されていませんでした。今回の発見により、これまでいわば伝説とされてきた吉田光由の熊本来訪・滞在が事実であること、また細川家に仕官したのではなく、「客人」として招かれていたという史実が明らかになりました。

熊本藩が大規模な開発事業に追われていた時期に、吉田光由は土木工事に不可欠な数学(算術)体系と、京都の最先端の水利技術を提供したのです。今回の史料の発見は、治水や農地開発など、地域社会を一変させた17世紀初頭の大規模なインフラ整備が、中央と地方の技術・文化交流の上に成り立っていたことを裏付けるものです。

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(参考)

これらの史料について、一般社団法人日本数学会『数学通信』第25巻-4号(2021年2月号)に、後藤典子「吉田光由の肥後下向と細川忠利」が掲載されています。
https://www.mathsoc.jp/publications/tushin/backnumber/index25-4.html

*永青文庫研究センター

熊本大学附属図書館では、「永青文庫細川家資料」(約 58,000 点)や細川家の筆頭家老の文書「松井家文書」(約 37,000 点)の他、家臣家や庄屋層の文書群計 10 万点あまりが寄託・所蔵されており、永青文庫研究センターではこれらの資料群について調査分析を行っています。


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